歴史の無限大リピート?!
私もその中で生きている
数か月前になるでしょうか?「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉をFacebookに我那覇真子氏の言葉と紹介しましたが、なんとこれ、ローマ時代からある言葉だそうだ。
ローマ人天才。
今の世の中に伝わる、はるか昔の哲学者たちの言葉も、そのまま今も当てはまってる。
歴史の無限大リピートだと日々思います。
壊れたDVDの同じシーンがずっと続いているようなイメージです。

socialtrendspr0によるPixabayからの画像
善意で舗装という面からみると
仏教も含め、多くある宗教も私たちの混乱を招いたり、自我を崩壊させたりするときがあります。
これらは善き考えだと強く推されたりしますが、言い方を変えるとそれらは他人の物語である一面があり、それに無理に適応しようとしたり、自我を埋没させているのでは?というケースもあります。これらがそののち自我や精神の混乱の引き金になる場合もあるようです。
もちろん、信仰に救われることがありますが、自分の内側からの信仰と、善意というか、良いとされる教えに盲信的に無理に合わせていく、従うという外側からのそれは意味合いが変わってくるかと思えます。が、盲信から深い信仰へ変化していくことも多いことも確かです。
伝える側がいろんなものの良いとこどりをしてMIXして、ほらMIXしたらベーシックなものよりももっと良くなったよ!というときに、全然もっと良くなってなどいない時もあるんです。改良となることも、改悪となることもありそうです。
付加価値が良くも悪くも影響するというイメージです。おそらくこの「良かれ」は善意に分類される心理だろうと思うんですよね。その善意が相手の混乱を起こすこともあるし、成長や回復を阻害するようなことがあっても不思議ではない。

Thomas WolterによるPixabayからの画像
感情がある人間にはハードルが高い「ありのままに観る」
事実を無理に曲げてでも良い事柄だと解釈するのが善人ではないだろうし、ただただ良い一面だけを取り上げて誤読するのが善なる生き方とも限らない。
これらと、「ありのままに観る」ということは異なる行為だと思います。
しかし、私たちには感情があり、期待や希望があり、先入観があり、プライドがあるので「ありのままに観る」というのは「何も加えずただシンプルに見るだけ」なのに非常にハードルが高いようです。

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辛い時には
先述した、”歴史の無限大リピートだと日々思います。”は私の人生では救いにもなりまして、
吉凶はあざなえる縄のごとし
と表現されることが人生では起こるという経験値です。
凶事は吉事。
凶事は吉事の前払い。みたく考えて、それからの囚われを終わりにすることがあります。
結果、最後にHappyなら、「私の人生は幸せだった」と思うだろうし、最後思うような状態じゃなくても「いろいろあった。人生楽しんだな。満喫したな。」と思いそうですが、その時にならないとわからないですね。(笑)
生きている毎秒が奇跡の集大成だと気づけるとまた人生のとらえ方、感じ方が変わるのかもしれません。
皆様の暮らしにもHappyが降り注ぎますように。

VIJAYBBN MACWANによるPixabayからの画像
