自分を知る

バランス調整・ストレスケア
Susanne NicolinによるPixabayからの画像

自分を知るとは?

そのうちの1つとして「感覚」について

世の中に「自分を知る」ことについて星の数ほどご意見もメソッドもあります。言葉は共通でもその認識と解説も様々です。

精神論も多い。スピ論も多い。概念が美しい言葉で表現されてはいるが、実態が良くわからな教えも多い。表現が下手だけど芯をついている表現もある。

で、何が起きるかというか「ふんわりと煙に巻かれる」なんてこともある。情報や知識は増えた感じがするけど自分のことが分かったわけじゃないようなこともある。

今思っているのは、多分こういうもんなんだと思う。悪いとかいうことじゃなくて、元々こういった分野のこの話題とは「ふんわりと煙に巻かれる」ことからスタートして、それ以上に興味がある方が研究、追及、深堀されていくのだろうと。

ですから、「自分を知る」という概念を知るスタートラインは同じで、それをどうとらえるのかも様々だし、知るだけなのか、知った後にどうなりたいのかまで考えるのかも様々ですよね。

あと、「自分を知る」をはじめ、思想や信仰・教えなどについて述べていても、書籍を出していても、講演会を開いたりなど伝える側・行為をしていても其の本人がわかっているとは限らないということも知るようになった。概念はわかっていても自分の腑に落ちて、本当のところのようなものがわかっているとは限らないんだということも私は学んだ。

私もそもそも「自分を知る」という概念は情報を得て知りましたし、深く行き過ぎた哲学者に生命の危機が訪れることがあるようにちょっと厳しい深みにはまったこともありましたが、じゃあ私がどの程度自分を知っているのかはわかりません。

どこかで聞いた「空(くう)」というような思想を採用したら「自分を知る」ことだって幻になりかねないわけですよね?

それも確かに「空」と言えばそうかもしれないけど、生きている際に感じる楽しみも喜びも私にはある。じゃあ「空(くう)」を知識として知っておく意外には特に「採用しない」という関わり方もあるんじゃないかと思ったりします。

自分の生き方を考えたり、自分を知ることなどというのはそれを求める方が一生のような長い時間かけて続けていくことのようですが、だからと言って時間さえかけたら漏れなくわかるような事でもないみたい。感覚というものは年齢を重ねて変わったり、身体が変わるのと連動することもあるみたいだから、「自分の感じ方、捉え方」が変わることもある。

今までもHSPも含め敏感体質の皆様の生きづらさなどにも触れてきましたし、私自身の例も書いてきました、それらは生きづらさにもなり、個性にもなり、秀でた能力にもなり、自分を守る才能になる時がある。加齢とともに感覚が変わることもとても多いことも知っていても良いと思う。

だから自分の感覚・個性を把握して、少しでも生きづらさを緩和できる方法は無いかと気長に模索されて損はない。知らなくてただ生きづらいよりは少しは良いような気がするから。

嗅覚

以前から度々、私自身の聴覚(聴覚感覚)の働きについて触れてきました。聴覚感覚によってエコーロケーションのような働きをしているような気持ちがするというあくまでも個人的な感覚についてです。

感覚の話なので真偽不明です。

今回は今まであまり触れていないような気がする嗅覚について書こうと思う。

クンクンと匂いを嗅ぐ犬のイメージ

Susanne NicolinによるPixabayからの画像

私は時々、意識して(無意識ではない)クンクンと匂いを嗅ぐような感覚を動員することがある。実際の匂い、香りを嗅いでいるわけじゃないし、知りたいわけでもなくて、「雰囲気」のようなものをクンクンと嗅ぐ時がある。気分は犬だ。

これらが発動する対象は誰でも彼でもじゃない。

わかりやすく書くと、エコーロケーションのようなもので(アレ?)(オヤ?)(ハテ?)と何らかの反応があったもの・事象に関して、次なる自分なりの確認として嗅覚を発動しているような感じ。

多分、これを読んだ同じようなことをしている方は(わかる わかる)と思うだろうし、今まで意識していなかったとしても(そういえば自分も同じだな)と気が付くキッカケなどになると思う。

気が付けばその能力って伸びたりするし。

こういったことは「本能」の分野の働きだと思う。そう思うと、HSPも過敏タイプと本能タイプなどといった違いがあるような気がしてきた。どちらにしても個性ですが。

先天的か後天的か

個人的には後天的にこういった感覚が伸びたと思います。

機能不全家庭に育つ方は、鈍化するか鋭敏化するか割と2極化するような感じがする。本当のところはわかりませんが、私の場合は安全確保というか、生き延びるために鋭敏化したタイプだと思う。

幸せを考えたら、こういった感覚が鈍くても何の問題もない温かい家庭に育つことが「幸せ」なんじゃないかと思う。

先天性の場合は加齢などで鈍くなるとちょっと楽になるかもしれないね。

目を背けたってご本人の選択だ

知識や情報収集は好むが、自分のことになると目を背ける、自分を知ろうとしない方だっている。でもこういった思想や信仰、教えについて勉強・情報収集も好きだし発信や他者に教えることは好むが自分のことは意識的にも無意識的にも知ろうとしない。感情は動くけど自分の本音には触れようとしないケースもある。概念・知識と本音って違うこと多いけど。

概念や知識・情報の発信をする当人の感覚は特にないからAIが発信しているのと同じことになるのかもしれないね。感動できたり胸に刺されば受け手はそれで充分なのかもしれないが、情報の質量とか熱量は異なるような気がする。上手な絵と惹かれたり胸に迫る絵が異なるのと似ているだろう。表層の美しさが良い情報だと判断する方が居てももちろん良い。

今日現在の私の体感としては、「自分を知る」という概念を知った後は、自分独自の解析ルートを切り開いていくしかないんだろうと思っています。自分の清濁を併せ吞むしかない。

これらは1つの生き方だと認識している。良いも悪いもない。その方のスタイル。私は私のスタイルがあって、私以外の皆さん全員に全員分のスタイルがある。

こういったことも理解するようになった。これも含めて有難いと思っている。

補足

伝える側・行為をしていても其の本人がわかっているとは限らないということも知るようになった。

についても、悲しい体験や腹立つ体験をした際に、引き寄せ信者でも自分以外に怒りを向けることがある。いや、そこは自分が引き寄せたって言わないの?というパラドックス。

と一応書くものの、そこに意味があるのか?無いのか?をものすごく柔軟に対応して生きているのが人間なんだと自分を含めてしみじみと感じるし、私はヘリクツを散々書くけど、一応ヘリクツという自覚はしていて、一本芯がないことの方が多いのが人間なんだと思っています。だから愛すべき人間だし、お互い様なのでしょうね。

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