自分の言葉で話すとは?

バランス調整・ストレスケア

10年越しに理解できた

正確には10年以上越しか?

一回り昔に、「ミキさんは自分の言葉で話している。」と言われたことがある。その前後に自分の言葉で話していないヒトもいるというようなその方のご意見、ご感想だった。

似たようなことを別の方にも言われた。

この言葉を伺ったときにはその感覚が良くわからなかった。よくわからなかったからこそずっと頭に残って(あれはどういう意味だろう?)と脳内で生き続けてきた。そして時どき思い出しては考えていた。

(どんな感覚なのだろう?)となんとなく考えていた。

 

昔のドラマのセリフに「未解決の事件はいつまでも心に引っかかる」とあったがそんな感じ。

 

それがなんと、こちらの記事を自分で書いた後に(あぁなるほど)と過去最高 この感覚がわかったような気になった。それは

 自分を知る

こちらのblogの中に

概念や知識・情報の発信をする当人の感覚は特にないからAIが発信しているのと同じことになるのかもしれないね。

と書いた後だった。

主語

気が付いたのは、主語が違うという一面だった。

信仰的にはコウ、教えではコウ、法則ではコウ、陰陽論ではコウというような知識と情報を話している。

まぁ確かにこういった面を取り上げたらAIと一緒と言えばそうだな。と。

そう言われたら、私の場合はヘンクツ・変人・無知なりに自分の意見や考え、体感、検討を書いて、1つの可能性や解説の可能性として信仰的にはコウ、教えではコウ、法則ではコウ、陰陽論ではコウというような知識と情報を検討課題として書く時があるが、確定はほぼしない事が多いような感じがしている。

確かに主語が違う。ここを「自分の言葉で話している」と捉えたとしたらそう言えるかもしれない。しかし私自身がこの違いに気が付くのに随分長い時間がかかりましたから、多分冒頭で登場したお二人以外はなかなか気が付けないのではないでしょうか? 実際にその前後に自分の言葉で話していないヒトもいるというようなその方のご意見、ご感想をシェアした際に「私はそうは思わない」とおっしゃった方も居たし。

私はその感覚がわからず答えが出せない・説明できないので「未解決の事件はいつまでも心に引っかかる」というような脳内の「保留」の棚に入っていました。

こんな場合は除く

しかし、他方、他者の意見の認知について他者と自己の境界線がアヤフヤでそのまま自分発として話す憑依型の方もいるので(認知の歪みとまで書いて良いかは悩むがこのタイプではそうだろう)、この場合は主語があっても自分の言葉で話していることに該当しないこともあるだろう。

堂々と話すけど、流行によって主義も思考も変わるし、思考が練られたり、気づきがあって変遷するというステップが無く瞬時にコロコロと変わる。

他者がうらやましいと思う思えば思うほどそれらに望んで憑依するタイプもいる。憑依したらその対象のナニカを吸収できる・同一化すると無意識で感じているのかもしれない。

おそらく、そうせずにはいられないのは脳の傾向もあるけれど、独りでは立てず、何かの支えが無いと自分の存在が心もとないのだと感じている可能性の有無について変人な私は勝手に考えたりします。

誰でも独りでは生きていけないけれども、他者やナニカに同一化してのめり込まずにはいられない、カメレオンのようにその色に染まるその習慣を手放すのは精神や脳や心の根っこの根っこの根っこの部分と関わっているから難しいだろうなぁというのが今日現在の私個人の認知の一部です。

良いとか悪いとかじゃなくて、個性と脳と精神などなどの1つの特徴の話です。そして個人的な体感としてはスピ的な良さそうなものと一体化しているという主張をされる方が多いかなぁというのはMy統計です。もしこういったことに「自分だけの存在では心もとない」という影響があるのならそれはそうだと思う。そういったことと同一化するのが(他より優れた)存在価値だと変換されているケースもあるだろうと推測するからです。

承認欲求の強さもこういったことに由来、関係することもあるようだし。ヒトの望み、願望とは多方面に影響するなぁと思うのはこんな案件・可能性もあるからです。

可能性だけ書きます

主語を自分として文章を書くのは勇気というか、覚悟が必要です。狭い世界で誰も読んでないと思っても公になるわけだから。

こういったことの根底に「自分が在るのか?自分が薄いのか?」「恥をかきたくないという恐怖はどの程度だろう?」「責任を回避したい無意識」なども絡んでいるかもしれません。それに、主語を自分でしか文章を書いてはいけないなんてルールなどありません。今回はそういう話を書きたいわけじゃないし。

それに、いつも書きますが、私は脳内の独り言、検討事項、思考を記していますから正解を書かなくちゃという事ではないし、正解を知らないことばかりだし、正解があるのかどうかもわからないし、なんなら専ら100回遠回りしたことを書いた結果なんとなく腑に落ちてくるということだし、blogを読んだ方の無反応が当たり前だからこれで承認欲求とか得られないが、脳内のモノを外へ出したいという自分なりの「快」である脳内整理を大切にしている。

良い悪いの話をしているわけじゃなくて、10年以上前の(それはどんな感覚だろう?)が過去イチ紐解けた感じがした体験を書いています。

また別の要素 認知バイアス「センメルヴェイス反射」

実際にその前後に自分の言葉で話していないヒトもいるというようなその方のご意見、ご感想をシェアした際に「私はそうは思わない」とおっしゃった方も居たし。

という先述の文章に登場したご意見について、まさかの方向から飛んできたボールにヒントがありそうだ。

同じ話を聞いて、

  • (それはどんな感覚だろう?どこでそう思ったんだろう?)と思う感覚と
  • 即座に「私はそうは思わない」と答えが出る

2つのケースがこの案件ではあったわけです。

もちろんその場でも「私はそうは思わない」と即答した方の対象人物への尊敬や信頼を感じたわけで、それはもちろんそれでOKというか、なんの問題もないわけですが、私はそこに注目していたわけじゃない。

ここで登場するの「センメルヴェイス反射」です。正しくは「センメルヴェイス反射」というものの可能性です。

この関連すると想像すらしていなかった方向(動画)からのボールの中に大きく輝く可能性があった。

「センメルヴェイス反射」ってハロー効果と似てますよね。私も含めヒトはこれに驚くほど簡単に持っていかれます。(笑)

 

で、今回 こりゃあなんというわかりやすい解説だろうか!とシェアしました。

理由は私の体験したやりとりでも(動画の中でも)「なぜでしょうね?どこでそれを感じるんでしょうね?」と検討する余地は一切なかったという体感からです。そう、反射的に拒否するということがこの特徴のようですが、あの間髪入れない感じは「反射的」だったと感じたのを覚えています。

 

こういったことは無意識なんですよね。何度も書くけど良い悪いではなくて、「個性」「脳の傾向」「嗜好の傾向」ということだろうと思っています。

 

ただ私はと言えば、この記憶の中の案件がまた1つ「保留の棚」から「一旦理解したという棚」へ移動してスッキリしています。

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