難しいもんだねぇ
過ぎてしまえばあっという間だった1年?1年半?の歯列矯正ブリッジ生活も来月で一旦終わる。その次はマウスピース矯正で仕上げるそうです。ブリッジが外れたらどんな感じがするんでしょうね。ブリッジを装着する直前は噛み合わせが悪かったわけだから、フレッシュな感じかするのかな?
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体験から学ぶって簡単じゃないの?
人生経験を通して「学習」するということについて考えていた。1つの例をこちらのblogに書きました。
同じことを繰り返してしまう場合と、2~3回で身につく場合の違いとは?
その1つに、様々な解釈を加えず、対象の気持ちやら、出来事の背景やらを慮ったりせず、目の前で起きたことをそのまま受け止めるというシンプルさの有無もあるでしょう。
簡単に言うと、バイアスの無さでしょうか?

バイアス 認知
認知の歪みってそもそも個人や集団の持つバイアスの具合ですものね。ただ、認知というものは共通項ではなくて、五感を通して個々の感じる世界は様々で、その例として長年同じ時間を過ごした家族や夫婦、兄弟は感情や思考も完全一致するわけないし、全く同じ記憶など持たないし、学校のクラスで同じ授業を受けていても全員が同一記憶でもないのと同じ。

思考と体感・体験の両建て
マジックカットがどこからでも切れないことがあるという現実(100%切れないとは言えないからファクトでも無い。ヒトによっては100%どこからでも切れるという体験のみの方もいるだろう)も揺らいでいるわけですから
この例では確実な結果などないことになるが、今話題にしているのは「学習」についてです。
こういった揺らいている、確実性があるとはいえない、真実とは何かが揺らぐ現実があるという前提のもとに「経験から学ぶ」ということを考察しているわけです。

copilotで画像作成 心体カウンセラー 武田美紀
思想と信仰と思考はまた別の話だとして考えよう
多分5年以上前にホームページのコラムに書いたが、ビデオ録画でもしていない限りは真実は無い。しかし、そのビデオ録画の中に10人いたら、その10人の記憶は様々だ。そしてその記憶もどんどん変化していき、意識的にも無意識的にも改ざんされていく。
そして、その改ざん後の記憶が「真実」になっていく。正しくは「真実だと思っている記憶になる」。この仕組みを使って洗脳も起こるし、歴史も書き換わる。極端なことを言うと、誰かの好きなように伝承したらそれが「歴史」へと昇格してきたわけですよね。
「今」以外はいつでも揺らいでいるんだとつくづく感じる事があります。記憶力がとんでもなく良くても、バイアスがある限りビデオ録画のような事実確認とはならない。その記憶力が良い方の立ち位置から前後左右どちらかに数センチずれただけで見える景色は異なるわけだから。
画角が異なるし、映像を切り取るディレクターも別人となる。
見える景色の解像度、頃合いも人生経験によって異なる。極端に書くと5歳の子と70歳の大人はピッタリ寄り添っていたとしても目の前の出来事の解釈が変わるわけだし。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像
だから、体験から学ぶという一定の基準など無いような気がします。
これらを踏まえて体験から学ぶとは?
情報や知識を得て、人生に自信を持つこともある。
その基準は社会や他者の価値観だったりする割合はどの程度だろうか?
体験から学ぶというのは、自分でしか行えない。よく巷で「考える」という行為は、思考でどうのこうのという事ではなくて、自分の経験を「身体感覚として捉えて」かつ解析し、身体の記憶を増やしていくことのような気もしてきた。
それは、マジックカットが(どこからでも切れると書いてあるが、そうとも限らんぞ)と指先が覚えていて意識的か無意識的にちょっとチカラ加減をしているのと同じように。
頭でっかちで学ぶのではなくて、身体の細胞も記憶していくというような。こう考えると、トラウマと呼ばれる現象は身体の細胞と脳の両方が反応しているようなイメージがあるような気がしますね。
理性で考えるより前に身体反応(反射がおこる本能のような部位)がおきたりしますものね。

脳のバグ copilotで画像作成 心体カウンセラー
感受性の話になってくるのか?
これもまた以前ホームページのコラムで「生きている感じ(実感)の有無」というようなトピックを書いたことがありますが、先ほどのトラウマと呼ばれる反応から逆引きして考えてみると、(学校などの勉強の学習ではなくて人生の経験による)学習というのは、フワッとしているよりも、生きている実感が強い方が学習能力というか、学習を活かす能力が伸びるのかもしれないですね。
そうなると、現実を軽んじるタイプのカジュアルなスピ傾向よりも、キツイ想いをして(2度とこんなのはゴメンこうむる!!)と強く決意する方が現実から学ぶ率は上がるのかもしれないなぁ なんて考えたりしました。
これは法則とかでは全くなくて、こういう一面も考えられるかなぁ という考察に過ぎません。
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こう考えると そういえば
赤ちゃんから大人になる過程で、痛みや恐怖、防衛本能に強く刻まれたりして「危険行為」を認識していきますね。注意を怠って頭をぶつけて痛かった、驚いたからその先同じことを繰り返して何度も痛い目にあいたくないから
- 前を見る
- 足元に注意する
- 頭上を注意する
- (人によっては)動物に安易に手を出さない
とか学びますよね。
しかし、依存や中毒、誘惑、くすぐり、損得、欲求、権威や流行、不思議系、洗脳などについてはその学習行為・効果が発揮されにくい。
それは、痛い目にあった自分を「それを体験した自分を心底認知しない」とこのような体験から学ばないケースに繋がることもあるだろう。
ギャンブル依存症で言えば、数少なく勝ったときの自分は「それを体験した自分」として認知するが、数多く負けた自分は「それを体験した自分」として認知しないというような。
BADコミュニケーションで痛い目にあった際に「それを体験した自分」として全身で認知しない限り同じことを繰り返したりする。恋愛依存などでも良くあることだろう。共依存とか。
ただ、多分、「それを体験した自分」として認知することがとっても難しいケースも多いんだと思う。それを認めることに恐怖を感じる事もあったりするのだろう。そこに着手すると他にもいろいろと気が付くことが出てくるし。
影響が他に及ぶからね。

こういったことを考えると、転ばぬ先の杖がいかに難易度が高いか理解できるような気もしてくる。
いろいろ気が付く恐怖 > 認知の修正
という選択をすることもあるだろう。プライドなのか、恐怖なのか。
だから、私はこのようなことを個人的に考察するが、ヒト様の恐怖をあおるのは本意じゃない。気が付きたい方はやはり「それを体験した自分」として認知する方向へ進んでおられるし、その途中恐怖を感じても「乗り切りたい」という意思がある。精神力とも言えるのかもしれない。
現実が実は揺らいでいるよりも、揺らがない社会がある方がやっぱり安心感があるもんだろうし。
なるほど、揺らぎが「幻」なのかも
映画「マトリックス」系のこの世は幻とは違って、今日書いてきたような現実は揺らいでいるという意味でこの世は幻なのかもね。と頭に浮かんだ。
映画「マトリックス」系のドラマチックな物語ではなくて、極々当たり前の「現実の揺らぎ」。
今日書いたような文章が頭に浮かんだというか、理解できたような気になった自分が天才かと思えたよ。(笑)
そう、超軽いチカラのトップギアで脳内が超高速回転で働いて、(私 なんか急に頭が良くなってない?)と思った数年前のとある期間があったんですが、その後も超高速回転とは感じないけどある程度の落ち着きがあるまま(引き続きちょっとは頭が良い状態か?)と緩やかな波があったりしたような気がしますが、ここ最近、またちょっと頭が良くなっているような気がします。気のせいでしょうか?
まぁきっと気のせいでしょう(笑)

しかしですね、以前よりも一層、ドラマチックな物語に酔わなくても、おどろくほど答えはシンプルってことが世の中には多くあるような気がしてきています。
本質の周りの装飾がいろいろあって、それに目がくらむのも現実だし、ほとんどのモノが本質の周りの装飾だということも現実だと感じる2026年の8月の終わりです。
あなたも私も世界も、幸せでありますように。

