本気度というのは精神論?
精神論で語っても意味がない?
以前本blogに私自身が過去喫煙習慣を ふぃっ っと千載一遇のチャンスで止められたと書きました。
苦しみも無く、止めた後の強烈な欲求も無く、本当にありがたいことに呆気なく止められた。 何度か禁煙に失敗したので余計にその僥倖の有難味を理解できた。この時の私には本気とか精神論とか一切関係なった。ただのチャンスだった。
既に書いている自分の体験談と似たようなことをおっしゃっていたのでシェアします。
医師だって依存はあるし、依存を止めていなかったり、止めようとすら思っていなかったり、何度も誘惑に負ける方もいる。依存については医師とかそういう職業って関係ない。
情報や知識があったって、依存を止めることはまた別で、素晴らしい文章を書いたり、素晴らしいメソッドを開発しても承認欲求や他の我欲が消失することとは別問題なのも当たり前だけど、名声や学歴による後光効果は架空の人物像を作り上げたりするんですよね。
ご本人もそれを求めているケースも多いし。

Geminiで画像作成 心体カウンセラー™
生きていく上で不安や恐怖、保身は必要な感性だけれど
貯蓄家も浪費家も根源は同じとおっしゃっています。
ご参考に。
文章を書いてきて良かったと思えた
考えて、考えたことを脳内から出す行為として文章を書いています。
この文章を書くという行為はまさにアウトプットで、思考の整理になるし、思考展開の呼び水となっていますが、まさにマッチポンプ。
しかしこの、そもそも「考えて」の部分で、他者との会話というのは有難い行為だし、会話以外でも他者の考え方・価値観を見聞きするのも思考の種になる。どの種がどのタイミングで発芽するのかや、育った先に融合したするのかも時間が経ってみないとわからない。

socialtrendspr0によるPixabayからの画像
疑わないと同じことを繰り返す
割と定期的に頭に浮かぶ思考がありまして、下の3つも私の視点になっている。
- 疑わないと同じことを繰り返す。
- それが正しいやり方だったことを証明しようとする。
- これっておかしく無い?と思うと、繰り返さない?
ちょっと話題は変わります
私は基本、お話する相手の方が自分の書いたもの(コラムやblogという意味)を読んでいると思っていない。他者のblogをマメに読むって結構ハードル高いでしょ?
私が今日現在、YouTubeは見るけど、誰かのblogを継続して読んでいないので、当然相手の方もそうだろうと思っています。というか、ホームページのコラムやblogを書き始めて軽く10年以上経ちますが、基本、お話する相手の方が自分の書いたものを読んでいると思っていないというのは割と同じです。
これは多分私に何パーセントか含まれている自閉傾向たる所以ではないかと自己推察しています。自分が考えて、アウトプットするのが好きという自分の世界で完結して生きている傾向というような。
ですから、過去、どなたかと会話した際に時折、「私のblogだって読まれて影響あたえてるんだから」とちょっと怒られた?責められた?りした時に「??」と戸惑ったことがあるし、「だから書いたじゃん」と言われると(知らなくてゴメン)と思ったこともある。
だから、過去(もうそのサイトは閉鎖しましたが)blogに書いたスピ系に分類されるような体験談などを他の方があまりに吸収して、先日も書いたように「洗脳されたがっているように感じる」ようなことがあるのは想定外で、その様子を感じた時に依存や洗脳というようなエッセンスを感じて「不健康」に感じたことも既に過去に書きました。これらは「良いと思うものをシェア」という行為とは違うんですよねぇ。
しかし他方、自分に依存する人が増えることを自分の存在価値の強さ、大きさだと捉えて喜びを感じる方や、私は○○だ!と存在を主張し、周りが従うことを喜ぶ方もいるし、自分に対する敬意を強制して当然だと思う方もいるし、自分に洗脳される方が増えれて増えるほど自分は偉いんだと認識する方もいるし、それをビジネスに転換する方もいる。
双方いて成り立つことなので、外野が何をいっても意味がないかもしれないが、それが「健康的な雰囲気」かどうか?という視点では見てしまう。
ですから、時々反応しちゃうんですが、(あれ?私の書いた文章をまんまマネした?オマージュ?)と感じると、
A.私がそれほど良い文章を書いたのか?
B.それとも、考えてはいないが、洗脳のような反射的行為なのか?
とよぎらなくても良いものが頭によぎって反応しちゃうんですよね。
Aなら健康的な風味だし、Bならご本人の脳内を一周しないままの表層の反射っぽくて健康的風味とはちょっと違うような気がして。
Bなら行為の本質はAIがネットの中の情報をカジュアルにまとめる行為とほぼ同じなような気もしないでもない。
でもね、私個人も最初はBで、その後自分で考えだしたりするから、決めつけられないのは確かだし、私も自分の反応に対して、(心が狭いw)と思うこともありますよ。
私が基本、シェアしたり、それを引用して文章を書く際に引用元を明記することで発信者・著者に対する敬意や正確さを表現しているつもりなので、それらが無いままに丸っと真似されたと感じるとMyルールに準じていないゆえに反応しているというのも自覚しています。
今どき引用元に敬意を表すなんて無いし、研究にしたって、絵画だって、著作だってアイデアの盗用なんて古来からあるし、私もいろんな知識を吸収してきて自分と他者の思考の線引きなんてできないし、引用元を表記することで自分以外の誰かが注目を浴びるのは面白くない方もいるだろうし、まぁそんなこんなで自分も含めて人間社会だと思うわけです。
これらも「在るもの」として生きるしかないよね。自分の反応も含めて「在るもの」だし、私が忘れている自分の似たような行為も「在ったはず」だし、無いわけないし(笑)
横道にズレた話を踏まえて話を進めます
先日関西で対話した際に、対話した相手の方が私の書いたモノを何も読んでなくても、ありがたいことに読んでくださっていたとしても、どうであっても
- 疑わないと同じことを繰り返す。
- それが正しいやり方だったことを証明しようとする。
- これっておかしく無い?と思うと、繰り返さない?
というような価値観や話題、ビジネスや政治など、私が無知な分野の話もとても楽しかったし、感情論や精神論で自分の主張を通すというようなやり方も一切なくて、対話や会話って本当に優雅な娯楽だとも感じたし、対話や会話ができる友・相手の方がいるのは本当に有難いと感謝の気持ちが後になっても湧きました。
お互いに「平」って心地よい。
カジュアルなスピに傾き過ぎていないと、何とも言えない心地よい社会性というかそういった感じがするもんだと思いました。
上手な文章を書けていなくても、今のところ全然飽きない趣味があって幸運です😊