「自分の言葉」よりわかりやすいかな?
しっくりこないと考え続けちゃう
こちらの記事に「自分の言葉」「文章の主語」などについて書いた。
記事をアップした後も、(もっとわかりやすい書き方ないかな)と思っていた。ピタッとしっくりきてなかったから。
さっき、前回より良さげな解説を思いついた。
温度感? その由来?
主語は主語なのかもしれないけど、それはナニを指しているかと言えば、文章を書いている方の価値観が漂っているのかどうか?ってことだと思った。
信仰的にはコウ、教えではコウ、法則ではコウ、陰陽論ではコウというような知識と情報を話している。
というようなことを美しい文章や図解されていたとしても、知識や情報だけなら誰が書いても同じというのは曲論だけだけど、しかし読む側が知識や情報を知りたいのならwin×winだし、返ってアナタの意見や解釈は要りませんということもある。
だから私も「自分の言葉で話すとは?」という感覚がわからなかった。読む側が知識や情報を知りたいのならwin×winで、受容と供給がマッチしているということが染み込んでいたから。
ただ、これと「自分の言葉で話す」という論点、視点は異なるという当たり前過ぎることになんだか煙に巻かれていた。
違いは、温度感というか、感情というか、人間味というか、個性というか、・・・・そんな感じ。そう考えると、人間味というものを知識、情報、解説(立場や名声や学歴などの条件)であまり見えなくすることができるというある種の「知識武装」「条件重視」なんて言葉もありますねぇ。
あと、感情の反応と、信念の有無による反応って違いますよね。

主語は同じでも
私はよく、「私たちは」とか「私達人間は」とか「人間の多くは」などとも書くが、その時の話題に対する自分の意見を書いていたりする。他方、同じように「私たちは」とか「私達人間は」とか「人間の多くは」と書いていてもその論法が「信仰的にはコウ、教えではコウ、法則ではコウ、陰陽論ではコウというような知識と情報」による文章もあるなぁって思ってもいる。気づいていると書いて良いのかわからんけど。
でも、そもそも、文章を書く際にどのような立ち位置で書くのか?について柔軟性があっていろんなスタイルやパターンを持つ方もいるだろうし、1つのスタイルを変えられない方もいるだろうから、なんてことも考えました。
あ! ひょっとして
信仰的にはコウ、教えではコウ、法則ではコウ、陰陽論ではコウというような知識と情報を話したり書いたりすることが=自分の意見だという認知もあるかもねぇと今気が付いた。
ご本人は意見を書いているつもりかもしれない。解説にその思想を引用した時点で「これは自分の価値観、これは自分の意見」だという認知の方法もあるなぁ という気づきが腑に落ちました。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像
瞬時に「自分思考」だと思い込む
他者の意見の認知について他者と自己の境界線がアヤフヤでそのまま自分発として話す憑依型の方もいる
多分、その見聞きしたものが気に入るとその思考に憑依して、時にはそれを自分発だと主張し、なんだか奪うかのような結果になる。価値観って練りあがっていくものは余り揺らがないが、このような模倣スタイルをその場その場で変えていくのが自分の価値観だと芯は作られにくいかもしれない。しかし、私も生まれて以降他者の模倣から始まり、試行錯誤して今でも価値観を練っています。
両者の違いってあるんですかね?ないんですかね?
「自我」の話になるのでしょうかね? 自我って認知についても影響しますものね。
〇〇に自分は影響を受けたな。という認知がご本人にはほぼ無いことなど生まれてからその生命を終えるまで誰でも山盛りありますが、行動パターンなどに自分と他者の境界線のありかたの特徴が強く出るケースもあるんですよね。
私だって「良いなぁ」と思うものに染まりますが、その染まり具合について認知がちょっとはあるというか、感覚があるというか、養分は吸収するけれども「これは知識・情報として学んだもの。これは体験から学んだもの。」というような区別があるというかそんな感じです。
次から次へと頼る先を探さずにはいられないような心もとなさはあまりないようなつもりでいる。憑依型ってある意味強い依存と非常に似ていると感じることがありますが、そこが
その習慣を手放すのは精神や脳や心の根っこの根っこの根っこの部分と関わっているから難しいだろうなぁ
と思う所以でもあります。
特に憑依系の自分を気に入っていらっしゃる方が多いのかな?と感じることがあるし、そんな自分が好きならある意味自己肯定感はあるわけだし。
憑依型ってある意味強い依存と非常に似ているのなら、その自己肯定感は強固で根強いものではないかもしれないけど。
それに、「考えている自分など居ない」説もありますから、それによると私が書いているようなことも「わたしの考えでもなんでもない」ということになります。
世の中には色んな生き方も価値観も存在確認もありますね。

皆様の健康で笑い声のある生活を願っております。

